歩くほど歴史がつながる町・倉賀野宿|サムライロード中山道を歩く②【ぐんま観光県民ライター(ぐん記者)】
「全部が魅力なんです」倉賀野宿の宿場歩きはこの一言から始まった
<倉賀野古商家おもてなし館>
中山道・江戸から12番目の宿場町、倉賀野宿を歩くとき、最初に立ち寄りたいのが倉賀野古商家おもてなし館です。引き戸を開けると、明治6年(1873年)築の土蔵造りの商家がそのまま残り、まるで時間を遡ったかのような空気が迎えてくれます。
倉賀野古商家おもてなし館は、土蔵造りの「大黒屋」を活用して、観光客の休憩施設として開放解放されました。館内には散策マップや倉賀野宿を紹介する展示、映像があり、歩く前の予習にぴったりです。
歴史だけでなく、おすすめのお土産やご飯どころを紹介してくれるのは、地元のボランティアガイドならでは。抹茶やコーヒーを飲み一息つきながら、「倉賀野宿の魅力は全部」というボランティアガイドの言葉を胸に、中山道へ足を踏み出します。

<中に入るとゆっくりと休憩できるスペースがある>

<コーヒーやお抹茶を飲みながら一息ついて>
なぜ倉賀野は栄えたのか。常夜灯と追分から見る日光例幣使街道
<群馬県「中山道上州七宿めぐり散策図」から>
倉賀野古商家おもてなし館を出て東へ歩くと、道が2つに分かれる場所へつきます。追分に立つ常夜灯は、倉賀野宿を象徴するランドマークです。
右は江戸へ向かう中山道、左は日光東照宮へ向かう日光例幣使街道。旅人はここで進む道を選びました。
日光例幣使街道は、京都の朝廷から毎年4月に日光東照宮へ幣帛(へいはく)を届ける特別な使者(例幣使)が通った道で、江戸時代の重要な街道の一つでした。倉賀野神社の宮司によると、当時の例幣使の行列の中には雅楽隊の一行も加わっていた記録が残されているそうです。
常夜灯の台座には312名もの寄進者の名が刻まれています。その中には、江戸時代最強の力士と言われた雷電為衛門の名もありました。
※幣帛......日光例幣使では、徳川家康を祀る例祭に合わせて奉納されたもの

<倉賀野宿の常夜灯。右手側が中山道、左手側が日光例幣使街道>
街道だけではなく船が主役だった町。河岸跡から想像する江戸物流の賑わい
<倉賀野宿から烏川へ>
旧中山道を離れて烏川へ向かうと、穏やかな川の流れが目の前に広がります。今は静かな川ですが、江戸時代、この場所には最盛期大小150艘もの船が集まっていました。
倉賀野河岸(かし)は、江戸から大型船が上ってこられる最終地点です。高崎より上流は川が浅くなるため船が入れず、信州や新潟方面から牛で運ばれてきた米や大豆は、倉賀野で船に積み替えられて江戸へ運ばれていきました。
一説では、幕末の幕臣・小栗上野介忠順が江戸を引き上げる際、荷物を船で倉賀野まで運び、倉渕までは陸路で運んだと言われています。その際、宝物を倉賀野に隠したのではという話もあったとか。史実か伝承かはともかく、水運と物流の町だったからこそ生まれた話なのかもしれません。

<階段を降りて、倉賀野河岸跡と立札を見たい>

<ここから江戸へ向かっていた船が流れていたのだろう>
歩いていると、突然江戸時代に出会う。倉賀野宿に残る歴史的建造物たち
<倉賀野宿の高札場跡>
再び中山道へ戻ると、旧中山道沿いに突然歴史的建造物が現れます。倉賀野古商家おもてなし館近くにある太鼓橋跡は、享和保3年(18031718年)、遊女たちによる献金で石橋に作られたもの。献金された二百両という大金(現在の価値にすると約2,600万円〜6,000万円)は、当時大きな話題になっていたようでした。
高札場の立札を見つけ、さらに歩くと脇本陣跡が姿を現します。中でも須賀家の脇本陣跡は、倉賀野河岸問屋も兼ねていた建物で、現在も立派な母屋(おもや)が残っています。天保14年(1843年)の記録によれば、倉賀野宿には本陣1軒、脇本陣2軒がありました。今も建物が残る脇本陣跡は、宿場町だったことを実感できる数少ない場所です。
※高札場......情報の伝達手段として、幕府や領主が決めた法度や掟書が書かれた木の板の掲示板
※本陣......大名や公家、幕府の役人など身分の高い人が宿泊・休憩した公的な専用宿舎
※脇本陣......本陣が満室のときの予備として使われた宿舎

<太鼓橋があった場所。今は道になっていて下を歩ける>

<脇本陣跡>
「宮様ご下向につき三日間休み」日記に残る確かな歴史
<倉賀野神社でお参り>
中山道を歩き続けると、倉賀野神社の鳥居が見えてきます。かつて飯玉宮と呼ばれた倉賀野神社は、1,000年以上の歴史があり、宿場町の暮らしを見守ってきました。
宮司が教えてくれたのは、幕末に書かれた本殿建て替え工事の日記の内容です。本殿は慶應2年(1866年)に建て替え工事を終えました。その際、当時の世話人が記録を残していたと言います。日記には、文久元年(1861年)の10月頃、こう記されていました。
「宮様ご下向につき三日間休み」
時期から見て、将軍に嫁ぐため江戸へ向かった皇女和宮の行列を指すと考えられています。江戸へ向かう宮様の行列を迎えるため、工事を止めたことがわかる記録です。教科書で学ぶ歴史も、日常の出来事として書き残されていました。
境内には脇本陣の須賀家が奉納した神輿も受け継がれています。人が語り、守り続けてきたものが倉賀野神社には残り、今も生き続けていました。

<花手水で手を清めて>

<社務所前の神饌田。夏になると地域の子どもたちが田植えをして豊穣を祈る>
並木道から高崎宿へ。倉賀野宿の記念をもらいに令和を歩く
<高崎宿から倉賀野宿へ向かうとこの並木道を通る>
倉賀野神社を後にすると、中山道は安楽寺の前を通ります。安楽寺には群馬県指定史跡の安楽寺古墳が現存しています。7世紀末頃に造られた円墳で、石室内には7体の仏像が彫られており、12年に一度だけ開帳される秘仏として知られています。
古墳を過ぎると、松と杉の並木道。交通量が少しずつ増え、景色も宿場町から市街地へと変わっていきました。高崎宿はもうすぐです。
旅の記念には、高崎オーパ1階「高崎じまん」で御宿場印を手に入れるのもおすすめ。中山道御宿場印帳や、倉賀野宿・高崎宿の御宿場印もあわせて購入できます。

<中山道御宿場印>
宿場町の中でも人と物が多く行き交った倉賀野宿は、よくある史跡だけを見る町ではありません。街道、水運、人の暮らしが少しずつ繋がり、歩くことで一つの宿場町が見えてきます。
次回は高崎宿へ。中山道は、城下町から近代都市へと姿を変えていきます。
<参考文献>
観光資源保護財団 編『旧中山道』3 (日本橋-横川),観光資源保護財団,1976.2.
清水要次 著『史跡探訪 : 郷土のしおり』2 (中山道筋の巻),郷土誌刊行会,1983.3.
上毛新聞社 編『全集写真探訪ぐんま : 再発見-わがふるさと』4 (街道を歩く),上毛新聞社,1984.11
児玉幸多 著『中山道を歩く』,中央公論社,1988.10.
清水寥人 著『日光例幣使のみち : 京都から日光へ』,あさを社,1986.1.
八木牧夫 著『ちゃんと歩ける中山道六十九次 東 日本橋~藪原宿』,山と渓谷社,2014.11.
インフォメーション
倉賀野古商家おもてなし館
住所:〒370-1201 群馬県高崎市倉賀野町2010-6
電話:027-381-5311
開館時間:10:00〜16:00
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
HP:https://www.city.takasaki.gunma.jp/page/3388.html
倉賀野神社
住所:〒370-1201 群馬県高崎市倉賀野町1263
電話:027-346-2158
通常対応時間:9:30〜16:00
定休日:平日仏滅
Instagram:https://www.instagram.com/kuraganojinja.official/
安楽寺古墳
住所:群馬県高崎市倉賀野町867
高崎オーパ「高崎じまん」
住所:〒370-0849 群馬県高崎市八島町46-1 1F
電話:027-381-6967
営業時間(物販):10:00〜20:00
HP:https://www.opa-club.com/takasaki/shop/2037
群馬県 中山道を歩く「中山道上州七宿めぐり散策図」より
https://www.pref.gunma.jp/page/18421.html
高崎観光協会「中山道御宿場印めぐり」より
杜澤こさゆ