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富岡製糸場のココがすごい!

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更新日: 2023年03月16日

日本と世界の交流から生まれる

富岡製糸場の建造物としての特色は、建物や設備などにおいて、和洋の技術交流がみられること。置繭所や繰糸所などの建物は、木の骨組みと西洋のれんが積み(フランス積み)を合わせた「木骨れんが造」という構造で、れんがの目地にはセメントの代わりに漆喰が使われ、屋根は瓦葺き。フランスから導入した繰糸器も、日本の気候風土に合わせ、揚げ返し式(小枠に巻き取った生糸を大枠に巻き直す方式)にアレンジされ、さらに日本人女性の体格に合わせた高さに調整されていました。日本と世界の融合したカタチ。それが富岡製糸場なのです。繰糸所は「トラス構造」という建築工法を用い、柱の無い広い空間が保たれています。

操糸所

当時世界最大規模の製糸工場

富岡製糸場は器械製糸工場として当時世界最大級の規模を誇りました。器械製糸工場の規模は、繭を煮て糸を繰り出すための釜の数で表されますが、当時のヨーロッパの主要な生糸生産国であるフランスやイタリアなどでは150釜ほど。これに対して富岡製糸場は300釜と、2倍に達していました。その300釜を擁する繰糸所は、全長140メートル余りという長大な建物。多くの伝習工女たち(開業翌年の明治6年4月時点で556人)を集め、日本初の本格的で大規模な器械製糸が始まり、生糸の大量生産が行われました。

富岡製糸場空撮

当時の工場としての先進の設備

繰糸所の繰糸器の動力として、フランスから輸入された大型の蒸気機関が使われ、構内には約180メートルにおよぶ下水道、約400トンの水を蓄えられる鉄水溜(明治8年製造。現存する鉄製構造物として日本最古級)など、明治初期の工場として先進の設備が整えられていました。

鉄水溜

 

また、開設当初は1日約8時間労働、日曜休、病院・寄宿舎・食堂の完備、労働規則の制定など、近代的な工場制度と労働環境が整備されていました。余暇を利用した教育機会も設けられ、昭和23年(1948)には高卒資格を取得できる片倉学園が設置されました。

女工館(外観のみ公開)

首長館(ブリュナ館)

1世紀余り製糸工場として

明治5年(1872)に明治政府による官営の器械製糸工場としてスタートした富岡製糸場は、その後、明治26年(1893)に三井家の経営となり、さらに、原合名会社、片倉製糸紡績へと経営が移りました。その間、関東大震災や世界大戦などの出来事がありましたが、一貫して製糸工場として機能し続けました。技術革新や設備投資により生産性は向上し、昭和49年(1974)には過去最高の生産量(37万キログラム余り)を達成。昭和62年(1987)の操業停止まで、115年間にわたって日本の絹産業を支え続けました。現在、繰糸所に残る繰糸設備は、機械製糸の最も進化した形を示しているということ。これも富岡製糸場の大きな特色です。

 

140年以上前の姿を今にとどめる

富岡製糸場の最も大きな特色は「140年以上前に造られた建造物群が、創業時の姿を残したまま、良好な状態で保存されている」ということ。このことは広く世界を見渡してもほかに例がなく、世界遺産以外でも富岡製糸場に匹敵する近代的製糸工場は現存しないとされています。奇跡的といえる富岡製糸場の存在。それは、片倉工業をはじめ、この巨大な遺構を後世に伝えようとした人たちの努力によるものです。

東置繭所

日本の近代化と国際化を促す

富岡製糸場は、明治政府という近代国家がつくった大規模な製糸工場で、近代的設備による工業化の先駆けをなし、近代工業国家日本の原点、すなわち日本における産業革命の原点となりました。日本の工業は繊維という軽工業から始まり、やがて鉄鋼などの重工業へと移行するわけですが、その工業国日本の礎を築いたのが富岡製糸場だったのです。明治初期の日本には生糸以上の国際商品材料がなく、原料からすべて国内で生産できる生糸の輸出が外貨獲得の最大の手段でした。細い生糸が日本の近代化を牽引し、日本が国際社会の仲間入りをするために重要な役割を果たしたのです。

器械製糸を国内へ伝播させる

全国から富岡製糸場に集まり、製糸技術を学んだ工女たちは故郷へ帰り、地元の製糸工場に「富岡式」を伝え、富岡製糸場をモデルとする製糸工場も各地につくられました。富岡製糸場を模範とする器械設備は、開業翌年の明治6年(1873)から明治12年(1879)の間に、全国26の製糸工場に導入されたといわれます。なお、田島弥平宅をモデルとする蚕室や田島弥平の清涼育、および高山社での清温育の養蚕教育も全国に普及し、荒船風穴には貯蔵する蚕種が全国各地から寄せられました。

錦絵「工女勉強之図」

相互連携により良質な繭を開発・普及

富岡製糸場は、製糸技術の開発、普及のみならず、原料となる良質な繭を大量に確保するために、繭の改良運動を展開しました。田島家、高山社、荒船風穴は、富岡製糸場の主導のもと、試験飼育や蚕種製造、蚕種貯蔵を行い、優良品種開発と普及に貢献しました。富岡製糸場とこれら3資産の相互連携が、良質で安価な生糸の大量生産につながりました。

富岡製糸場キーストーン

高山社跡外観

昔の荒船風穴

田島弥平旧宅屋根裏(非公開)

絹文化を世界の幅広い階層へ

良質で安価な生糸を世界市場へ供給することにより、絹文化を世界の幅広い階層に普及させる、その一翼を担ったことも富岡製糸場などの大きな功績です。当時の欧米でシルクといえば、ごく一部の限られた人しか着用できない贅沢品でした。それを技術革新などによって打破し、シルクを多くの人に行き渡らせる役割を富岡製糸場などが果たしたのです。明治中期以降、生糸の主要輸出先はヨーロッパからアメリカに移り、絹文化は一層世界へと広がってゆきました。

シルクカントリーの「未来遺産」

富岡製糸場をシンボルとして、世界遺産に登録された絹産業遺産群のほか、群馬県内には、養蚕・製糸・織物などに関する近代産業遺産が数多く現存しています。また、群馬県は、厳しい状況にある国内の絹産業のなかで健闘する、日本一の繭と生糸の産地です。「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録を機に、さらに絹産業を守り、世界への展開も視野に、技術開発やブランド化などによって次代へつなげる努力を続けています。県内各地に残る絹遺産は、シルクカントリー群馬の「未来遺産」なのです。