不落の城!太田の金山城跡の遺構を歩く【ぐんま観光県民ライター(ぐん記者)】
金山城は一度も落城したことのない「不落の城」です
<金山城は日本100名城のひとつです>
太田市の金山城は戦国時代に造られた城で、現在も堀切、土塁、石垣などの遺構が多く残されています。太田市は1992年から発掘調査を開始し、遺構の保存整備事業を実施しました。そして2006年に公益財団法人日本城郭協会により、「日本100名城」に選定されました。
金山城は「不落の城」と称されています。1469年に新田一族の岩松家純によって築城されてから、上杉謙信や武田勝頼などの戦国大名に10回以上にも及ぶ攻撃を受けましたが、一度も落城することはありませんでした。
どうしてこれほどまでの堅固さを誇ったのか。金山城跡の遺構を歩いてその秘密を探ってみることにしました。
金山の麓にあるガイダンス施設で金山城の歴史を学びましょう
<史跡金山城跡ガイダンス施設>
金山城跡のある金山の麓には「史跡金山城跡ガイダンス施設」があります。この施設は建築家・隈研吾氏による設計で、外壁には金山城の石垣をイメージした石板が配置されています。金山城跡を歩く前に、まずはここで金山城の歴史をしっかりと学んでいきましょう。入館料は無料です。
<史跡金山城跡復元模型>
歴史解説のパネル、出土遺物の展示、歴史を映像で紹介するシアター……などいろいろありますが、いちばんの見どころは1/35スケールの史跡金山城跡復元模型です。金山城跡は石積みは復元整備されていますが、国指定史跡のため、構造や高さが不明の建物や柵などは復元できていません。この模型はそれらも推定に基づいて製作し、往年の金山城を再現しています。
<兵たちのフィギュアも置かれています>
<敵の動きを見張るための物見台>
山の尾根筋を分断する堀切で敵の侵攻を防ぎました
<山道を登って金山城跡の入り口に到着>
ガイダンス施設を出たら、金山城跡本丸を目指して山道を登っていきます。これがなかなかの急勾配で、息がはあはあと切れてしまいました。しかし、槍や甲冑で武装してここを登っていった兵たちはもっと大変だったことでしょう。15分ほど歩いてようやく金山城跡の入り口に到着しました。ここから山頂に向かってまたさらに坂道を上っていきます。
<西矢倉台下堀切>
その途中、堀切がいくつか見られました。堀切とは、敵の侵攻を防ぐために山の尾根筋を分断して造った堀のことです。金山城のような山城では、土塁と共に基本的な防御施設になっていたようです。
敵の侵攻を食い止めるための大手虎口の仕掛け
<大手虎口脇の月ノ池>
さらに進んでいくと、谷地形を利用して造られた月ノ池があり、その横には石垣の間に開かれた大手虎口がありました。かつてここは堅牢な城門で守られており、金山城の中枢部を守るための最後の防御ラインのひとつになっていたようです。
<金山城の大手虎口>
<復元模型の金山城の大手虎口>
城門の先の通路にも敵の侵攻を食い止めるための仕掛けが施されています。通路は緩やかな曲線を描いているため見通しがきかず、途中から道幅が狭くなっています。これにより、実際の距離よりも遠く感じさせる視覚トリックの効果を生んでいます。そしてそこで敵兵を停滞させ、左右から槍で攻撃していたようです。そのため、この通路を突破することは困難だったようです。
<途中の休憩所には「日本100名城スタンプ」が設置されている>
<かまども残されています>
<金山城の歴史を見守ってきた、推定樹齢800年の大ケヤキ>
<雨乞いなどの儀式に使われていたと思われる日ノ池>
金山城本丸の跡地に新田神社が建てられました
<金山城本丸の跡地に建てられた新田神社>
山頂は金山城本丸があった場所ですが、現在は新田神社が建てられています。1590年、金山城は豊臣秀吉勢の小田原攻めに敗れた北条氏とともに廃城となりました。そして1875年、その跡地にこの神社が創建されました。この地の生まれであり、鎌倉幕府討伐の立役者である新田義貞が祀られています。
<神社の裏手には金山城本丸の石垣が残されています>
<新田神社境内からの眺望>
かつてはこの場所で苛烈な攻城戦が何度も繰り広げられました。しかし、それももう夢の跡です。山頂の神社境内には風に吹かれてさわさわと揺れる木の葉の音だけが穏やかに響いていました。
金山城跡は歴史好き、特に戦国時代好きの方にはぜひ訪れてほしいスポットです。金山の麓のガイダンス施設から金山城跡まではちょっとしたハイキングも楽しめます。
インフォメーション
太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設
住所:群馬県太田市金山町40-30
電話:0276-25-1067
営業時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
定休日:月曜(祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日〜1月3日)
入館料:無料
小林ていじ